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2025/06/20 18:58 |
3D for CD(Cyber Dimension)
(テーマ:映画「攻殻機動隊 S.A.C. SOLID STATE SOCIETY 3D」2011年3月26日公開)

 
攻殻機動隊Stand Alone Complexは、2030年代という架空の未来を描いていながら、現代の社会問題に鋭い視線を向ける作品だ。
……という内容への評価も高いが、ここではそれは割愛し、この映画が3D作品であるという点に注目したい。
3D映画が商業的に打ち出されるようになった流れは2005年頃から始まったが、映画というある意味完成された表現形式に、立体映像の価値は果たして必要なのだろうか。私は常々、そのことに疑問を抱いてきたが、この作品はそれに一つの答えを提示しているように思う。
投げた物や突き出した物が飛び出して見えたりする効果は3D映画のひとつの"ウリ"だが、なんだかんだで、そうした表現は客寄せパンダのようなものである。予告編では多いに用いられるものの、作品中ではあまり登場しない。費用が掛かるという理由もあるが、実際のところ、結局は飛び出す表現があまり必要でないということなのではないだろうか。
『攻殻機動隊S.A.C. SSS 3D』では、こうした"わざとらしい"立体表現はほぼ無い。この作品における立体表現は、主に電脳世界の表現と画面の奥行きのみに用いられている。詳しい解説は省くが、この作品の世界観では、多くの人々が脳を直接ネットに繋ぎ、直接コンタクトをとったり、データを参照したりできる"電脳化"を行っている。頭の中がPCになっているようなもので、電脳化された視界は立体表現と非常に親和性が高いと言える。観覧者があたかも電脳化されたかのごとく、さながら疑似電脳化体験ができる。
3D映像作品は、制作費用と利益との兼ね合いから考えても、一過性のブームに終わる可能性がある。そうならないコンテンツに進化するため3D映画を価値づける表現は、"飛び出す"、"突き出る"ではなく、"取り込まれる"ような立体表現なのだ、と、この作品は告げているのではないだろうか。
 
 
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2011/04/25 00:37 | Comments(0) | コラム
スケープゴートの英雄論
※本日未明に放映されたアニメ「魔法少女まどか☆マギカ」の最終回ネタバレを多分に含みます。ご注意下さい。










 


英雄のいない時代は不幸だが、英雄を必要とする時代はもっと不幸だ。


これは、ベルトルト・ブレヒトが『ガリレイの生涯』の中で述べた言葉。
文字の通り、真に不幸なのは英雄の不在そのものではなく、それを必要としなければならない時代であるということ。
わたしがこの言葉を初めて知ったのは多分朝日新聞の天声人語だったと思う。どんな文脈で出てきたかは忘れた。



さて、大反響のうちに終わった「魔法少女まどか☆マギカ」、作り手の意図がどの程度あったかはわからんけど、色んな示唆のある作品に思えた。

逃げを打つようで情けないけど、以下は完全にわたしの私見で、まとめたのもほとんど自分のためなのであんまり石を投げないでね…!
わたしは何か特別な勉強をしてるでもないただの一般人なので、ところどころ憶測でものを言ってるかもしれない。

と、前置きはしておく。


 
この話の終わりとしてはすごく納得してるし良かったと思う。
ただ、「複雑で深刻な問題が山積しているところへ、それを如何にして解決するのか、とソリューションのひとつを提示した」そういう視点からみると、実はそんなに新しくないのかもしれない、と思った。
というのは、誰かひとりが犠牲になって問題の解決をはかり他を救う、ってのは、まあ、結構使い古されたパターンだと思うわけで。
その絡まりきった糸のような投げ出してしまいたいほどの事態にいかにして救いをもたらすのか、ってところにわたしは関心があったんだけど、そういう意味では、まあそうなるよね…という。
まどかの場合、まどかは皆を見守ってるってことになってて、彼女の意志や願いは叶っているけど、ほむら以外からおおよそ忘れられ、同じ時間を過ごすことはできない、一緒にはいられないという意味では犠牲と言って差し支えないでしょう。
多分、その犠牲を犠牲と呼ばせないことに作り手は心を砕いたんじゃないかと思うんだけれど、「一般人的な感覚」で目指す幸福と、彼女が辿り着いた幸福はやはりあまりにも違っているから、作品での位置付け的に「まどかは幸せだった」「望んでああなった」だとしても、やはりそれは犠牲に等しい。
 
じゃあ、敢えてこの作品がこういうソリューションを選んだのは何故かを考えると、わたしは大きく分けて二つの意図があると思う。
 
一つは、視聴者に向かって、「君ならどうする?」と問題を突きつけ、解かせようとしてたんじゃないかってこと。
特に、ターゲットはいわゆるゆとり世代と言われるわたし達。
この作品の注目度を一瞬で作り上げたマミさんの描写(=「願いが叶えられ、責任と義務を負うことのリスク」)や、安易に魔法少女に憧れるまどかへのほむらの態度(=「現実を見ろ」)とか、それらは全て、問題に掛けられてたベールを外し露にしていった作業なんじゃないかと。
山積した問題に目を向けさせるためにね。
それと、特に11話に強かった気がするけど、「あなたは愛されてるんだ」「家族や周りに生かされているんだ」というメッセージもあったとは思う。
これも、「大切なものがあるでしょ?」という問題提起。
その点については、まんまと乗せられて真剣に考察してた人も多かったし、成功したんじゃないだろうか。いや飽くまでもわたしの想像ですけど。
 
二つめは、結局誰かがやらなきゃ問題は解決しないんだ、ってこと。
昨今、社会問題も複雑化してきているし、それを示唆しているフィクションは数多有れど、それぞれがソリューションを提示しようと試みているはず。
そして、「まどか☆マギカ」が提示した方法「誰かが憎まれ役や損な役回り、スケープゴートを引き受けることで事態を解決に向かわせる」は、そんなに目新しいものじゃないよね、という。
わたしは不勉強で守備範囲も狭いので、アニメではぱっと思いつくところでは東のエデンくらいしか引き合いに出せませんけど、多分そういう作品はいくつもあると思う。
逆に考えれば、フィクションの中でさえそういうソリューションしか提示できないわけで。
もちろん、全部投げうってハッピーエンド☆も無いわけじゃないけど、そういう手合いは大抵の場合問題が宙ぶらりんのままだったりするし。
複雑な問題を全てすっきり回収した上で大団円、という作品(もちろんアニメに限らず)をご存知のかたは是非、是非こっそり(こっそり?)教えてください。

というわけで、現実社会の問題なんてものは、まさに、「誰かがなんとかしなきゃならない」。

その「誰か」になってくれる人が現れるのを待ってるのが、まさに現代の膠着状態そのものなんだろうな、と。
そして、フィクションでは「誰か」が現れてくれるけど、現実はそうじゃない。
待つんじゃなくて、誰もが、「誰か」になる意識を持たなきゃいけない。
現実では誰もがまどかで、誰もがほむらで、誰もがマミさんで、誰もが杏子で、誰もがさやかだ。
(長くなるしそれぞれの人物が何を示唆してるかとかは割愛しますけど。多分そういう考察してる人は山ほどいるだろうしわたしもぼんやりとしか考えついてないし)
冒頭の引用のような「英雄」を必要とする、不幸な時代。
でも「英雄」はどこからか現れてくれるものじゃない、誰しもがその意識を高く持っていなくちゃ、と。

…この作品が伝えたかったのはそういうことなんじゃないのかなー と、最終回を観て思いました。
何度も繰り返し観たわけでもないわけで、多分論理の綻びもたくさんあると思いますが、感想として形にしておきたかったのでわたしは満足です…。

どうもチラ裏でした。


お前ほんとになんでもかんでも東のエデンにつなげようとしやがって、っていう突っ込みは却下。




その裏に社会問題的問題提起があると思うと、息をするように攻殻機動隊とか東のエデンと比較して考える昨今です。
今学期の研究テーマ東のエデンにしようかなって割と本気で思ってる。

2011/04/22 11:31 | Comments(0) | TrackBack() | おたく
ショタ判別のための最も重要なファクターは何か
 
 
最近twitterでショタコンと誤解されかねない発言ばかりしている気がしますが、わたしはショタコンではありません(キリッ
ただちょっとかわいいものが好きなだけです!!
 
 
それにしても、巷には素敵なショタが溢れていますね。主に二次元。
最近のお気に入りはヴァンガードのアイチくんです!
高3だけどダンガンロンパの苗木くんもかわいいお。…黙ります。
 
ところで、かつて中学…いや小学校高学年くらいの頃、そうわたしがオタクに目覚めた頃、当時からかわいいものが好きだったわたしは、友人と「いくつ(年齢)までがショタか」みたいな議論をしたものです。青いなあ
その頃は「キャラデザにもよるし、場合によっては10代男子ならショタでいい」みたいな乱暴な結論になりました。それはねーよ。
 
 
しかし最近、と言っても半年は前だとおもうけど、友人(前述の友人とはもちろん違う)と似たような議論になった際に彼女が言ったのが、「ショタは作品内に於けるポジションである」という見解。
これは腑に落ちたね。すとんと落ちたね。
世のショタコンのお姉様お兄様方はとっくにご理解かもしれませんが。
というのも、多分、ショタコンという性癖をお持ちの方々のレーダーが反応しているショタこそ、主にポジションという特性によるものだと考えられるからです。
 
つまりね、そのキャラクターがショタと呼べるかどうかは、作品内における扱いとか立ち位置に起因するということ。年齢ではないんです。キャラデザはちょっとあることは認める。
わたしが考えるショタかどうかの判別に重要なファクターは、ポジション、作品の特性、そしてキャラデザです。
 
 
年齢として恐らくは最も議論の的になるのが「中学生はショタか否か」だと思われる。
かつてわたしが中学生だった頃の議論では、「十六夜(13)はショタだろ……でもマンキンの葉くん(14)はショタか? あとテニプリの子らはショタじゃないよね?」というかんじでした。議論がキャラデザに左右されていたわけですね。
 
ショタの判別のためのファクターがポジション>>>作品の特性>>キャラデザ、ということを説明するために、独断と偏見で選んだ作品における少年キャラに線引きをしたいと思います。わたしの守備範囲からのチョイスですまんね。
というかぶっちゃけわたしは狭く浅いオタク知識しか無いので本当に偏ってるとおもうけど、分かる人だけ分かってください。
 
 
まずは、登場人物の多くが小学生である2つのアニメの少年たちについて言及したいとおもいます。
 
デジモンシリーズ。とりあえずデジモンアドベンジャー(無印)について述べます。
そもそも小学生ばっかり出てくる作品なので、年齢で判別するならまさに「デジモンまじロリショタ入れ食いアニメおいしいmogmog」となるわけですが、まあ、そうは問屋が降ろしません。
何故か。ポジションが決まっているからです。
選ばれし子供たちというパーティには、八神太一、石田ヤマト、泉光子郎、城戸丈、高石タケルという5人の少年がいるわけですが、それぞれポジションというか、役割が異なることは明白です。
太一さんはリーダーとして時に突き進んだりバトルでも相応の活躍をし、ヤマトはそれに一見冷静に建設的な意見をしたり(ヤマトが実は熱い男だという突っ込みは今は置いておく)、光子郎は人見知りながらも頭を使ってパーティに貢献し、丈は最年長としてリーダーシップをとろうとし(て空回りし)、タケルは最年少として周りに迷惑を掛けまいと健気にしかし無邪気に振る舞う。
この場合、"最年少"であるタケルだけが、ショタコンさんのレーダーにひっかかるはずです。他の少年たちも小学生ではあれど、作品中においては皆彼より年上であり、ある種の「年長者の自覚」をもって動いているからです。
そのタケルも、ヒカリが登場してから少し振る舞いが変わらないこともないけど、まあそれは誤差の範囲かなと。
これをポジションによるショタ定義の典型だと考えます。
 
 
しゅごキャラ! は、同じように小学生がたくさん出てくる作品でありながら、少し事情が違います。
主人公が女の子なのと、若干ながらメンバーの入れ替わりがある点。そして重要なのが、主人公グループは小学生くらいの集団であるが、年上のキャラクターが比較的たくさん出てくるという点です。
しゅごキャラ! の男子小学生キャラは、辺里唯世、相馬空海、三条海里、藤咲なぎひこの4人とします。厳密には、空海は途中で中学生になるし、なぎひこはもともとはなでしこという女子として登場していますが、まあ細けぇこたぁいいんだよ!!!!
取り敢えず性格でのポジション分類をしておくと、唯世くんは誠実なリーダー気質、空海は年長者としての牽引性を備えつつのやんちゃ系、海里は冷静な参謀役、なぎひこは……うーん…、まあちょっと保留で。しゅごキャラにおいてはこの性格ポジション分類はあまり重要じゃないので。
ではこの作品で何が重要かというと、先にも述べた通り「年上のキャラクターがたくさん出てくる」ということ。歌唄ちゃんもイクトも、敵側の人間も、皆年上です。
しゅごキャラ! は小学生が子供の夢を守るために大人と戦うお話、ってことかなあ? まあこれも本筋じゃないので割愛しますが。
つまり、主人公たち小学生グループよりも年上のキャラクターがたくさんいることによって、相対的に小学生男子たちがショタポジションになりやすいということ。
そもそも、ショタでない10代男子登場人物としてイクトが設定されているため、小学生らは皆ショタコンレーダーに引っ掛かっているのではないだろうか。わたしはイクト萌えなのでわかりませんけど(でも空海は引っ掛かる
 
 
どちらもメインの登場人物として小学生が多く出てくる作品でありながら、ショタとして定義されるキャラ(いわゆるショタコンと呼ばれる性癖をお持ちの方々が反応するキャラ)がその小学生男子の全てではないということがお分かりいただけただろうか。
登場人物間の立ち位置、ポジションが物を言うということ。そして作品の作り。作品の作りによって相対的に年少の少年がショタポジションと扱われることを、潜在ショタと呼ぶことにします。
作品の作りによって潜在ショタが生み出される構造も大きな括りではポジションの問題と言えますが、これを否定する(ポジションの問題に同化させない)例がイナズマイレブンだと考えます。
 
 
超次元サッカーで最近だいぶ有名になってきたイナズマイレブンですが、キャラデザの超次元っぷりに初心者(何)は失念しがちなのが、彼らは中学生だということです
また、キャラデザ的にも頭身が低めなため比較的ショタコンホイホイアニメのように感じがちですが、そういうわけでもありません。
彼ら中学生たちには指導者がいる、つまりしゅごキャラ! で指摘したように、この中学生たちは潜在ショタに位置づけることができます。しかし、では彼ら全員がショタコンレーダーに引っ掛かるかというとそうではありません。
これが、作品の作りによる位置づけ(潜在ショタ)が、作品の中での相関関係によるポジションとは別のファクターだと述べる理由です。
 
では、イナズマイレブンのキャラクターのなかでショタコンレーダーに引っ掛かるキャラにはどんなファクターが関係しているのか。
もちろん、ポジションも重要です。しかし、アニメ初期には、ポジションによる差異はあまり無いと考えられます。これは作品を知らない人には説明のしようがないんですが(っていうか今までの例すべてがそうだけども)。
ここでようやく、キャラデザが物を言うときがやってきたわけです。
例えば、雷門中サッカー部のメンバーの中では、ショタコンの皆さんが反応するのはやはり円堂さんです。まるい輪郭、まるく黒目がちな目、意志の強そうな眉、明るく元気そうに見えるバンダナと髪型、中の人の声。元気な"少年"を具現化したようなキャラです。実際は元気なだけじゃなく、一部では円堂教と称されるカリスマ性を持った人徳溢れるキャラなので、元気・やんちゃ系と呼ぶのは違う気がしますが。
2期以降は、最初の分類であるポジションで判別できるショタも増えてきます。1年生で円堂さんに憧れており同じGKである立向居(円堂さんは2年生です)、小学生でありながら確かな実力を持つやんちゃ系(?)男子虎丸、などなど。彼らはキャラデザ的にもショタ系です。
つまりイナズマイレブンのショタコン向けキャラ配置は、二重構造をとっていたと考えられるのです。年長者がそれなりに登場する作品でありながら、中学生たちが潜在ショタにならない代わりに、キャラデザと立ち位置の両方で、作品内のショタ定義を行っていると言えます。



ここまでの理由から、ショタ判別のためのファクターは、ポジション>>>作品の特性>>キャラデザという重要度であると結論付けます。異論は認める。
異論というか、反例みたいなものはいくらでも見つかるような気がするので、まあ与太話だと思って頂ければ。ってこんだけ重畳に述べておいて与太話か。


わたし自身はショタコンじゃないと思ってるんですけどね。だってしゅごキャラだとイクト派だもん。空海も好きだけど。
ところで今あついのはやっぱりまどか☆マギカですねー…マミさんが生き返った夢を観たよ。シャルロッテちゃんかわゆすかわゆす……シャルロッテちゃんのグッズとかないのかね。同人グッズでもいいよ。シャルロッテちゃんならストラップにしたい。ていうか読み方シャルロッテで良いの?シャーロットでもかわいい。
あとはヴァンガードだけどあれは実にけしからんおねショタアニメだとおもいます。まじで。なんで年上のおねーさんとばっかりファイトしてんのアイチくん。むちゃくちゃかわいがられてるじゃねーの…けしからん…実にけしからん…あとドS櫂くんはいじめていじめていじめ倒したいですね。ていうかtwitterでも言ったけど、そろそろショタを(っていうかアイチくんを)かわいがってかわいがってかわいがり倒すアプリとか出て良い頃だと思うの。

おっと…気付いたら手が勝手に妄言をタイプしていたぜ…なんてこったい…
また気が向いたら考察を垂れ流しにくるね!

2011/03/09 14:18 | Comments(0) | TrackBack() | おたく

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