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2025/12/13 10:50 |
スケープゴートの英雄論
※本日未明に放映されたアニメ「魔法少女まどか☆マギカ」の最終回ネタバレを多分に含みます。ご注意下さい。










 


英雄のいない時代は不幸だが、英雄を必要とする時代はもっと不幸だ。


これは、ベルトルト・ブレヒトが『ガリレイの生涯』の中で述べた言葉。
文字の通り、真に不幸なのは英雄の不在そのものではなく、それを必要としなければならない時代であるということ。
わたしがこの言葉を初めて知ったのは多分朝日新聞の天声人語だったと思う。どんな文脈で出てきたかは忘れた。



さて、大反響のうちに終わった「魔法少女まどか☆マギカ」、作り手の意図がどの程度あったかはわからんけど、色んな示唆のある作品に思えた。

逃げを打つようで情けないけど、以下は完全にわたしの私見で、まとめたのもほとんど自分のためなのであんまり石を投げないでね…!
わたしは何か特別な勉強をしてるでもないただの一般人なので、ところどころ憶測でものを言ってるかもしれない。

と、前置きはしておく。


 
この話の終わりとしてはすごく納得してるし良かったと思う。
ただ、「複雑で深刻な問題が山積しているところへ、それを如何にして解決するのか、とソリューションのひとつを提示した」そういう視点からみると、実はそんなに新しくないのかもしれない、と思った。
というのは、誰かひとりが犠牲になって問題の解決をはかり他を救う、ってのは、まあ、結構使い古されたパターンだと思うわけで。
その絡まりきった糸のような投げ出してしまいたいほどの事態にいかにして救いをもたらすのか、ってところにわたしは関心があったんだけど、そういう意味では、まあそうなるよね…という。
まどかの場合、まどかは皆を見守ってるってことになってて、彼女の意志や願いは叶っているけど、ほむら以外からおおよそ忘れられ、同じ時間を過ごすことはできない、一緒にはいられないという意味では犠牲と言って差し支えないでしょう。
多分、その犠牲を犠牲と呼ばせないことに作り手は心を砕いたんじゃないかと思うんだけれど、「一般人的な感覚」で目指す幸福と、彼女が辿り着いた幸福はやはりあまりにも違っているから、作品での位置付け的に「まどかは幸せだった」「望んでああなった」だとしても、やはりそれは犠牲に等しい。
 
じゃあ、敢えてこの作品がこういうソリューションを選んだのは何故かを考えると、わたしは大きく分けて二つの意図があると思う。
 
一つは、視聴者に向かって、「君ならどうする?」と問題を突きつけ、解かせようとしてたんじゃないかってこと。
特に、ターゲットはいわゆるゆとり世代と言われるわたし達。
この作品の注目度を一瞬で作り上げたマミさんの描写(=「願いが叶えられ、責任と義務を負うことのリスク」)や、安易に魔法少女に憧れるまどかへのほむらの態度(=「現実を見ろ」)とか、それらは全て、問題に掛けられてたベールを外し露にしていった作業なんじゃないかと。
山積した問題に目を向けさせるためにね。
それと、特に11話に強かった気がするけど、「あなたは愛されてるんだ」「家族や周りに生かされているんだ」というメッセージもあったとは思う。
これも、「大切なものがあるでしょ?」という問題提起。
その点については、まんまと乗せられて真剣に考察してた人も多かったし、成功したんじゃないだろうか。いや飽くまでもわたしの想像ですけど。
 
二つめは、結局誰かがやらなきゃ問題は解決しないんだ、ってこと。
昨今、社会問題も複雑化してきているし、それを示唆しているフィクションは数多有れど、それぞれがソリューションを提示しようと試みているはず。
そして、「まどか☆マギカ」が提示した方法「誰かが憎まれ役や損な役回り、スケープゴートを引き受けることで事態を解決に向かわせる」は、そんなに目新しいものじゃないよね、という。
わたしは不勉強で守備範囲も狭いので、アニメではぱっと思いつくところでは東のエデンくらいしか引き合いに出せませんけど、多分そういう作品はいくつもあると思う。
逆に考えれば、フィクションの中でさえそういうソリューションしか提示できないわけで。
もちろん、全部投げうってハッピーエンド☆も無いわけじゃないけど、そういう手合いは大抵の場合問題が宙ぶらりんのままだったりするし。
複雑な問題を全てすっきり回収した上で大団円、という作品(もちろんアニメに限らず)をご存知のかたは是非、是非こっそり(こっそり?)教えてください。

というわけで、現実社会の問題なんてものは、まさに、「誰かがなんとかしなきゃならない」。

その「誰か」になってくれる人が現れるのを待ってるのが、まさに現代の膠着状態そのものなんだろうな、と。
そして、フィクションでは「誰か」が現れてくれるけど、現実はそうじゃない。
待つんじゃなくて、誰もが、「誰か」になる意識を持たなきゃいけない。
現実では誰もがまどかで、誰もがほむらで、誰もがマミさんで、誰もが杏子で、誰もがさやかだ。
(長くなるしそれぞれの人物が何を示唆してるかとかは割愛しますけど。多分そういう考察してる人は山ほどいるだろうしわたしもぼんやりとしか考えついてないし)
冒頭の引用のような「英雄」を必要とする、不幸な時代。
でも「英雄」はどこからか現れてくれるものじゃない、誰しもがその意識を高く持っていなくちゃ、と。

…この作品が伝えたかったのはそういうことなんじゃないのかなー と、最終回を観て思いました。
何度も繰り返し観たわけでもないわけで、多分論理の綻びもたくさんあると思いますが、感想として形にしておきたかったのでわたしは満足です…。

どうもチラ裏でした。


お前ほんとになんでもかんでも東のエデンにつなげようとしやがって、っていう突っ込みは却下。




その裏に社会問題的問題提起があると思うと、息をするように攻殻機動隊とか東のエデンと比較して考える昨今です。
今学期の研究テーマ東のエデンにしようかなって割と本気で思ってる。
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2011/04/22 11:31 | Comments(0) | TrackBack() | おたく

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